アートサロン<時間旅行>


「ワクワクするようなアートな旅の仕掛け人」 雑誌のインタビュー記事より。1996年

「簡単なんです。いい映画を観ると、誰かと話したくなる。それと同じレベルで一枚の絵を語り合う」
山口さんが主宰するアートサロン『時間旅行』はそんな発想からスタートし、会員は約300人。20~30代の男女が中心だが、なかには夫婦で参加している熟年カップルもいるそうだ。
『時間旅行』は、いわゆる教養講座とは趣が違う。絵を語るといっても、色がどうだ、技法がこうだというような話はまったく出てこない。その絵が好きか嫌いか、何を感じるかから始まって、画家やモデルがどんな生き方をしたのか、その絵にまつわる人々の人生を旅する。まさに時間旅行である。

「たとえば、ゴッホの絶筆といわれるのは、麦畑にカラスが飛んでいるだけの絵です。でも、彼がそのカラスを追い払うために持っていたピストルで自殺したと分かると、ただの風景画が別の表情を持ちはじめます」


一枚の絵を、それを描いた人、モデルとなった人にスポットを当てて見ると、なるほど興味は一気に膨らむ。
テレビ界では、アート系の番組は最も視聴率が低いといわれる。出版の世界でも美術関係の読者層はごく限られている、というのが常識である。そんな中、『時間旅行』のファンが着実に増え続けているわけは、どうやらこのあたりにあるようだ。

「おもしろいですよ。まさに、事実は小説より奇なり、です」
山口さんの言葉にも、自然と熱がこもってくる。

<大胆不敵、ゼロからのスタート>

山口さんはもともと、高校で世界史を教える教師だったそうだ。“子どもの頃から絵が好きで”というタイプではなく、まして芸術を体系的に勉強した経験も、ない。
そんな彼女がアートの世界にのめり込み、サロンを開くに至ったきっかけは、初めてのヨーロッパ旅行にあった。

「世界史を教えていたので、歴史には自信があったんです。でも、ガイドさんの説明には“何、それ?”と思うことが多かった。じゃあ、私よりもう少し歴史を知らない人は、どれだけのものを見て、感じて帰ることができるんだろう。もったいないな、と」
帰国後、知識を補う本がどのくらいあるか調べてみたが、ガイドブックではありきたり、もう少し詳しく知りたいと思うと、その上は一気に専門書となる。いちばん欲しい中間がない。ないなら作ろうというのが、サロンの始まりだった。

それにしても、資本金ゼロ、需要を探るリサーチもなし。進め方はかなり大胆だった。

「まず、レンタルスペースで場所を確保し、それから人探し。お金はないので、語学学校やスポーツクラブに飛び込みで告知のビラを張らせてもらって」
こうして“ちょっと知的にルーブル美術館”をテーマにした第1回は、10人の申込者に10人のサクラを加え、無事開かれた。

3回目を終えた頃からは、雑誌での告知を開始する。

「無料で載せてくれるサークル募集コーナーを利用したり、記事として取り上げてもらおうと、雑誌社にDMを出しまくったり」
これが当たって、4回目以降はサクラなしでやっていけるようになった。
怖いもの知らずの素人が、たまたま幸運に恵まれただけ、と考える人もいるかもしれない。けれど、それはちょっと違う。

「友達はたくさんいるけれど、絵や生き方を語り合える相手はひとりもいない。ここに来ればそういう話ができてうれしい。これはOLの方からよく言われることです」
一枚の絵からそれを取り巻く人々の人生へと話が進むと、サロンに集まったメンバーは真剣に語り合い始めるという。

「特に私たちの世代は、受験など疑問を持つヒマもなく突っ走ってきました。そして今、一呼吸おいて何かを模索したいと感じているのではないか」
と、山口さんは分析するが、そういう時代の空気を、彼女は敏感に嗅ぎ取ったのだと思う。

<ライフワークのテーマは“ミューズ”>

『時間旅行』の活動を通じて、山口さんはさらに、新たな出合いを経験する。
執筆活動である。出版社に出したDMが、たまたま雑誌『FRaU』の編集長の目に止まり、やがてエッセイの連載へと発展した。
彼女が迷わずテーマに選んだのは、画家たちが愛し、インスピレーションをかきたてられたモデルたちだった。山口さんが芸術に興味を持ったそもそもの始まりのひとつも、実はひとりのモデルである。

本名アリス・プラン。有名画家たちが競って彼女を描いたというその女性は、モンマルトルのキキ(女王)と呼ばれた。山口さんとキキの出合いは、マン・レイが撮った一枚の写真だったそうだが、それは息をのむほどの迫力だったという。

「撮り手がモデルに抱いている特別な感情や親密なムード、つまり愛を感じたんですね」
マン・レイという人は写真家として優秀だけれど、もしキキに出会わなければ、この一枚のポートレートはないはず。芸術家にインスピレーションを与えるモデルの存在は、とても大きいのではないか。以来、山口さんは、芸術家とモデルの関係に興味を持つようになる。
これまで画家が取り上げられることはあっても、モデルが語られることはあまりなかった。けれど、絵は両者の共同作業。


「お互いにインスパイアしながらひとつのものを創り上げていくという意味では、芸術の枠を超えて、男女のあり方に通じるものがあると思うんです」

名画の中の女性たちを、山口さんは“ミューズ(美神)”と呼んでいるが、さまざまミューズたちにスポットを当てることで、現代の男女がふたりで行う自己実現のあり方も訴えていけたら、と考えている。

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